2009年12月11日

大型転輪

大型転輪
BT戦車やT-34、T-54/55、T-62など第二次世界大戦中から戦後しばらくのソ連戦車によく見られる転輪。イギリスのカヴェナンター、クルセーダー、クロムウェルなどの巡航戦車や陸上自衛隊の74式戦車でも採用された。転輪上部で上側の履帯を支える。高速走行時に有効とされるが、転輪の装着数が必然的に少なくなり、転輪間の幅が大きくなるため不整地走行性能に難がでる。履帯幅の延長などで改善が可能。また高速走行時に上側の履帯が振動で破損しやすい。なお古い資料ではこの転輪形式を「クリスティー方式」と呼ぶこともあったが、正確にはサスペンションの形式を指すもので、転綸のサイズや上部支持転綸の有無は無関係である。
小型転輪
戦車の登場初期より存在した転輪方式。小さな転輪を数多く装着することで、転輪間の隙間を小さくでき、不整地走行性能が向上する。しかし速度性能に限界が生じ、高速度を求める車両には向かない。イギリスのマチルダII歩兵戦車やチャーチル歩兵戦車が代表的な例。
中型転輪
大型と小型の良いところを妥協してとった大きさの転輪。上側の履帯を支える為の小さな上部支持転輪を持つ。両者の中間程度の可もなく不可もない性能で、現在主流の戦闘車両用転輪形態として落ち着いている。
ステキ・手作り
テニス
転勤
棚田
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体外離脱
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栄養ドリンク
白地図
フェンシング
腎臓病
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図書館
縄跳び
悪性高熱症
風水
アメリカンフットボール
衛星放送
アスペルガー症候群
闘牛
挟み込み転輪・千鳥足転輪
大型転輪と小型転輪の良いところをすべて盛り込もうとして開発された。大型転輪を交互に左右半重ねにして配置したり、一個と二個を交互にはさみ重ね合わせるようにした形態の転輪である。これにより転輪の間隔を小型転輪並にし、不整地性能の向上を期待することができる上、高速高機動かつ大型の車体が製造可能な特徴を持たせようとした。しかし破損した奥の転輪を交換する際に手前の無傷の転輪も外さなければないこと、加えてトーションバーに損傷を受けた場合交換にはさらに煩雑さが増すこと、細かく入り組んだ転輪の隙間に泥などが入り込みやすく冬季には凍結しやすくなるなど、メンテナンス上重大な問題があり、なおかつ接地圧の解消にはそれほどの結果を出せなかった。

2009年11月30日

喫煙方法と種類

「葉巻きタバコ」と「刻みタバコ」の2種に大別される。葉巻きタバコはタバコの葉を刻まずに丸めて吸うもので、刻みタバコをタバコの葉で巻いたものも存在する。刻みタバコはその形態によって、さらにいくつかに分類される。
葉巻タバコ
葉巻きタバコはもっとも原始的なタバコの形態であり、乾燥し発酵したタバコの葉を巻いて作られている、発祥はメソ・アメリカ文明からと言われており古くから貿易品として利用されてきた。
種類は大きく分けて湿度管理の必要なプレミアムシガーと管理の必要のないドライシガーに別れている。
刻みタバコ 刻んだタバコを、紙に巻くか、器具に詰めて吸う。
紙巻きタバコ

闘牛
映画音楽
哺乳類
漢方薬
惑星
自動車工学
スクエアダンス
融資
東海地方
夜景
カロリー
真菌学
スケートボード
色素性乾皮症
ルームシェア
超能力
アジサイちゃん
アロエヨーグルト
うららかな休日
おしりかじり虫
一般にタバコという場合、これを指す。シガレットとも呼ばれる。パイプ等の喫煙用具を必要とせず着火すればそのまま吸えるので、喫煙者に広く普及している。手軽な反面、必ずフィルター部分を中心に一定量の廃棄部分が発生するためポイ捨てされる事も多い。1本あたりの平均的な燃焼時間は3?5分程度で、概ね半分から2/3程度吸ったら火を消して、吸殻として捨てる。火のついた先端は非常に高温で800度近くにもなるので、扱いには注意を要する。紙巻き煙草の税率が高いEUでは、あらかじめ長い煙草を作り、自分で切ってさや紙に詰める製品もある。(ドイツのStax Trio Zigaretten等)。
手巻きタバコ 紙巻きタバコに対し高額な税金が課されている欧州などの国では、刻みタバコとシガレットペーパーを別々に購入し、自分で手巻きして喫煙する方法も行われる。手巻き方法は、シガレットペーパーを一枚取りだし、折り目に刻みタバコを摘んで並べる。舌でシガレットペーパーの糊付け部分を湿らせて筒状に丸める。人によってはフィルターを吸引口に装着したり、添加物を加えることもある。

2009年11月26日

飲酒と貧困

飲酒と貧困 には、世界の貧困問題と不可分である。世界的に、学歴が低く、低所得、失業中などの人において飲酒率が高いことが多数の統計的研究によって裏付けられている。複数の研究では、貧しい国の中には家計の約18%が飲酒に費やされていることもあると指摘されている。そのため、少ない所得から食費・健康管理費・教育費などがさらに削られ、栄養不良・医療費増大・早死・識字率低下をもたらし、社会階層の固定化に寄与している(WHOによる)。

日本においては、飲酒による暴言・暴力やセクハラなどの迷惑行為はアルコール・ハラスメント「アルハラ」とも呼ばれている。この「アルハラ」は、公共の場、職場や家庭内など、2003年の全国調査によると、「アルハラ」を受けた成人は3,000万人にも達している。

日本人男性では,年齢が高いほうが飲酒未経験者・禁酒者の割合が高く,若年層では飲酒量が多い傾向がみられた。結婚している人よりしていない人,および身体活動度が高い人より低い人で,飲酒未経験者・禁酒者・多量飲酒者が多かった。 女性では,高齢層より若年層,教育年数の短い人より長い人,身体活動度の高い人より低い人で飲酒者の割合が高いという結果となった。その他、非飲酒者の収縮期血圧,拡張期血圧,総コレステロール,LDL-Cは飲酒者よりも高い結果がみられた 。
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韓国政府は、飲酒による社会経済的な損失の費用が年間20兆ウォン(約2兆6000億円)を超えるという韓国内政府統計を示した。これを切っ掛けにテレビコマーシャルなどを用いた「節酒キャンペーン」が行われた。医療費の支出や早期死亡、生産性の減少など、社会経済的に損失を与えた費用が20兆990億ウォンに及ぶなど、飲酒の弊害が深刻な水準にあると明らかにした。同部はその根拠として、18‐64歳のアルコール使用障害人口(アルコール乱用人口とアルコール依存症人口を合わせた数)が全人口の6.8%(221万人)に及ぶという2001年保健福祉部精神疾患実態疫学調査の結果を挙げた。

2009年11月13日

1929年に始まった世界恐慌

1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを端緒として世界的な規模で各国の経済に波及した金融恐慌、および経済後退が起きた。1929年10月24日は「暗黒の木曜日」として知られ、南北戦争に次ぐアメリカの悲劇といわれた。

第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。

1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市場からの離脱などによりアメリカ国内の他の生産も過剰になっていった。
けの付く言葉
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また、農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていたにもかかわらず投機熱が煽られ、適切な抑制措置をとらなかった。アメリカの株式市場は1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇トレンドに入った。株式で儲けを得た話を聞いて好景気によってだぶついた資金が市場に流入、個人投資家も、信用取引により容易に借金が出来、さらに投機熱は高まり、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰。1929年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1ヶ月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。

2009年10月31日

治療法

単純骨折で骨の転位がなければそのまま固定をし、骨の転位がある場合は徒手整復や牽引などの非観血的整復術や手術による観血的整復術によって正常なアライメントに戻し、一定期間固定し安静を保つ。一方複雑骨折では骨が表皮から飛び出すことで様々な細菌が存在する外界と交通してしまうことから感染症の阻止が最重点課題となる。傷口の念入りな洗浄消毒と汚染され挫滅した組織の切除(デブリードマン)が受傷後直ちに行なわれるべきで、抗生物質の投与も積極的に行われる。骨癒合に要する期間は損傷部位や年齢に左右されるが、いずれの骨折も同じプロセスを踏んで修復される。ただし、感染症や不適切な治療により骨癒合が遷延したり癒合しなかったりするケースもある。

内固定
手術によって金属のプレートやワイヤー、ピン等の固定具によって骨を接合する方法。
外固定
ギプス等を用い、体の外側から、骨折部が動かないよう固定する方法。
休日の昼下がり
空の案内人
浩子の自然エネルギー
山のクリスマス
樹の夏まつり
小さな花びら
新生活応援
晴斗の有頂天外
千の風最新情報
大樹が園芸に挑戦
天国と地獄
二日酔
美優の一日同行
睦美の日記
優花のお嫁さん
陽生の完全無欠
玲音の独り暮らし
21世紀へ羽ばたけ
アドベンチャー
イエローパワー
創外固定
手術によって骨折部周囲の骨にピンを串刺しにし、体外に出た部分を金属棒やレジン(樹脂)などで支持する方法。開放骨折などの際、損傷部への手術操作により感染リスクが高まる恐れのある時や粉砕骨折などに有用である。
経皮的鋼線固定
キルシュナーワイヤーなどを用いてX線透視下に皮膚の外から骨を串刺しにして固定する。(右上の画像参照)
Gultの癒合日数においては、癒合は中手骨で2週、肋骨で3週、鎖骨で4週、前腕骨で5週、上腕骨体部で6週、脛骨で7週、両下腿骨で8週、大腿骨で8週、大腿骨頚部で12週かかる。

2009年10月20日

樋山路盆踊り

樋山路盆踊り(ひやまじぼんおどり)は、大分県中津市耶馬溪町樋山路地区に伝わる盆踊り。踊りの種類が大変多く、いずれも長い伝統を有するものである。

中津市の中でも旧本耶馬溪町、耶馬溪町、山国町の盆踊りでは楽器を一切用いないのが大きな特徴である。樋山路地区においても楽器は用いず、音頭取りの歌声のみに合わせて踊る。踊り手は必ず団扇を持ち、手で団扇と叩いたり膝などに団扇を打ちつけながら踊るが、これが太鼓の代わりとなっているのである。このことを団扇太鼓と言い、団扇が傷み易いことから、予備の団扇を準備しておく場合もある。
環境生活情報
休日の昼下がり
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玲音の独り暮らし
21世紀へ羽ばたけ
アドベンチャー

当地区においては、昭和30年頃までは初盆の家を1軒ずつ回って踊った。踊りが13種類もあり1軒あたり2時間はかかるので、初盆が多い年は夜明け頃まで踊り続けた。これは踊り手にとっても、また初盆の家にとっても負担となる上に高齢化の進行などもあって難しくなってきたので、現在は盆踊り保存会を中心に樋山路地区全体で合同の供養踊りを行っている。

千本搗き、三つ拍子、さえもん、博多踊り、寿司押し、佐伯踊り、米搗き、書生さん、曲典丸、三勝、六調子、ネッチョケ、小倉踊りの全13種類が伝承されている。三つ拍子、さえもん、佐伯踊り、三勝、六調子などといった元来の盆踊り唄の他に、千本搗き、寿司押し、米搗きなどといった作業唄からの転用や、書生さん、博多踊りなど流行唄からの転用の唄も多く見られる。

2009年06月21日

業界の公正競争規約などで規制されるほか

広告の内容については、不当景品類及び不当表示防止法(景品表示法)や薬事法などの法令、業界の公正競争規約などで規制されるほか、各メディアで独自の広告掲載基準を持っており[3]、表現が基準に合わない場合には修正を要請されたり[4]、場合によっては掲載を拒否されることもある。しかし、掲載基準の運用は全体的に甘いため、誇大表現の広告が後を絶たず、特に不動産業や貸金業(中でもスポーツ新聞や夕刊紙などで広告している、トイチと呼ばれる登録間もないサラ金業者)など社会問題を引き起こしている業種も存在する。そのほか、屋外広告物法のような規制も存在する。

業種に対する規制 [編集]
日本では、法令や自主基準などによる、特定の業種に対する広告の規制もある。

医療機関、医業等(病院・診療所など)の広告は医療法第69条で規制されてきたが(診療科目や診療時間・休診日、住所、電話番号、地図程度しか出せなかった)、2001年に規制が一部緩和された(医師名、所属学会、ホームページURLなど)。
更年期障害
映画音楽
アルツハイマー病
オリエンテーリング
関節炎
人間工学
甲状腺疾患
環境工学
タップダンス
機械工学
原始時代
いざ・鎌倉時代
世界の建築
季節のこよみ
月の物語
湯・山梨
外国の物語
果実で美!
オレンジ活用
掃除秘伝

弁護士や法律事務所の広告も、統括組織である日本弁護士連合会(日弁連)の方針で規制されていたが、2000年10月より撤廃された。
主に債務整理、破産手続等を担当する法律事務所を中心に、一般に対する広告が目立つようになった。

かつては銀行など個々の金融機関の広告も規制されていたが、撤廃されている。

一方、タバコの広告は、1990年代以降、財務省令などで規制が強化された。

法規制ではない自主規制では、アルコール飲料(酒類)や貸金業などの広告がある。特に貸金業の広告は、一般紙や放送メディアでは条件が厳しくなっているか、断られる場合も多い。

2009年06月02日

扇子(せんす)・扇(おうぎ)とは、うちわと

扇子(せんす)・扇(おうぎ)とは、うちわと同じく自分の手で風を送るのに用いる道具であり、数本から数十本の細長い骨組みを束ねて端の一点(要=かなめ)で固定し、使用時には開いて可動できる。骨には大抵和紙が貼られており、展開すると紙を貼られた部分が段々の扇面となる。折り畳むことでコンパクトに納めることができる。いわば折り畳みのできるうちわである。

扇子を開く角度は、大体90度から180度の間であり、円を三等分した中心角120度前後のものが主流である。扇子を開いた形は、「扇形(おうぎがた、せんけい)」と言い、幾何学の用語にもなっている。このような扇子の形状は、「末広がり」に通ずるので縁起のよいものとされてきた。そのため、めでたい席での引出物としても用いられている。「おうぎ」は、語源は「あふぐ」(扇ぐ)の派生形の「あふぎ」であるが、日本語の変化により関連がわかりにくくなった。

扇子とうちわでは、うちわの方がはるかに成立が早く、紀元前の中国で用いられたという記録がある。また、古代エジプトの壁画にも、王の脇に巨大な羽根うちわを掲げた従者が侍っている図がある。(図説、初期王朝時代)

このようにうちわは文明発祥時から存在する古い物であり、日本へは7世紀頃[要出典]に伝来したが、うちわを折り畳んで携帯に便利な扇子にするというアイデアは、ずっと時代が下り、8世紀頃の日本で発明された。扇子の着想は、一説には、木簡(今で言うメモ帳のような物)を束ねて一端に穴を開け、紐などで繋いだ物が起源であるとされる。
予備校 観光 香水 旅行代理店 美容整形 フランチャイズ 仏具 健康 調査 生活習慣病 古着 検定 おもちゃ 専門学校 関東 しみ取り 動物園 ケア 起業 ネイル 内職 葬儀 わきが グルメ アロマ 贈り物 学習 菜園 プリスクール 中国四国 審美歯科 予約 旅館 しわ取り 雇用 ケア 旅行代理店 老人 わきが 老人 アロマ ファッション 外国語 宿泊施設 通信教育 地域情報 しみ取り 投資 コスメ 設計施工

平安時代頃から、扇子(扇)はあおぐという役割だけでなく、儀礼や贈答、コミュニケーションの道具としても用いられた。具体的には和歌を書いて贈ったり、花を載せて贈ったりしたことが、源氏物語など、多くの文学作品や歴史書に書かれている。

武士階級では刀と同じ物と解釈され尊ばれた。

大陸には北宋の時代に輸出された。

日本で発明された扇子は、コンパクトに折り畳めるという利点が高く評価され、大航海時代には中国を経由して西洋にまで輸出されて独自の発展を遂げ、17世紀のパリには扇を扱う店が150軒を数えるほど、上流階級の女性のコミュニケーションの道具として大流行した。

ヨーロッパで発展したものには、羽根扇やレースを編みこんだ洋扇などがある。

エジソンが、白熱電球のフィラメントに竹製の扇子の骨を使って成功したという有名な話がある。

2009年04月30日

竜雲に敗北

まもなく胡若愚と竜雲との間で、主導権争いの対立が激化し、6月14日、胡は竜に先制攻撃を仕掛けて、これを捕虜とした。しかし、竜配下の盧漢は昆明から脱出し、雲南軍でも声望の高かった胡瑛を擁立して、胡若愚への反撃を開始する。戦局不利となった胡若愚は、已む無く竜を解放し、いったん昆明を離れた。胡は、張汝驥に加え、貴州省政府主席周西成とも連携して、竜への反撃を試みたが、1929年(民国18年)7月、完全に敗北して雲南を追われてしまう。

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その後の胡若愚は、李宗仁ら新広西派に与して反蒋介石の軍事活動に参加したが、失敗に終わる。1933年(民国22年)からドイツへ留学して軍事を学んだ。1936年(民国25年)夏に帰国し、翌年に日中戦争が勃発すると、李のいる第5戦区の代理参謀長に任命され、その後も各職を歴任している。

日中戦争終結後、胡若愚は、いったん退役した。1948年(民国37年)、行憲国民大会代表に当選し、李宗仁の副総統当選のために尽力している。1949年(民国38年)2月、雲南出身の第58軍軍長兼第11兵団司令魯道源(白崇禧配下)の推薦により、胡は同兵団副司令として軍に復帰した。9月、胡は第58軍軍長となり、病のため入院した魯に代わってその軍を率いることになる。

同年11月末、広西の岑渓・容県一帯で、胡若愚は中国人民解放軍と交戦したが、敗北して軍は殲滅され、胡自身も銃弾を浴びて戦死した。享年56。

2009年04月15日

カルマル同盟

カルマル同盟(デンマーク語/ノルウェー語/スウェーデン語: Kalmarunionen)はデンマーク、ノルウェー、スウェーデンが単独の君主の下で連合する一連の同君連合(1397年-1520年)である。 各国は王権を放棄したが、それぞれの独立は維持し、関心の拡大(特にスウェーデンのデンマークとホルシュタイン支配に対する不満は)は1430年代から1523年の最終的解消に至ることになった内戦を引き起こした。 北方七年戦争はこの同盟の最終的崩壊とスウェーデンのヨーロッパの大国の一つとしての台頭の契機だといわれる。

近世 [編集]

宗教改革の波は1530年代にスカンディナヴィアに押し寄せた。そしてスカンディナヴィアはすぐにルター派の根拠地の1つとなった。

多くの司教が追放され、そのうちの一人オラウス・マグヌスが1539年、イタリアにおいて、スカンディナヴィアの最初期の地図であるカルタ・マリナを製作している。

バルト帝国
スウェーデンの勢力はカール9世の統治のもと強まった。Ingrian Warの間、スウェーデンは版図を東方に拡大した、ポーランドおよびデンマーク・ノルウェーおよびドイツ諸邦とのいくつかの戦争がスウェーデンの一層の拡大を可能にした。カルマル戦争のような逆転はいくつかあったけれども。スウェーデンは帝国の統合を始めた。幾つかの戦争はほどなく北方戦争、スコーネ戦争にほどなくいたる。デンマークはこの時代大きな被害を受けた。ついにカール11世の統治下の帝国は、準絶対主義から「絶対君主制」(絶対王政)に統合された。

三十年戦争 [編集]

三十年戦争は1618年から1648年の間、戦われた戦争であり、おもに、神聖ローマ帝国の中央ヨーロッパの諸領邦が戦ったが、大陸諸国の殆どを巻き込んだ。 この戦争が起きたのには幾つもの要因がある。発端はプロテスタントとカトリックの宗教的な争いだったが、ハプスブルク帝国とそれ以外の勢力との覇権争いという側面もあった。デンマークとスウェーデンは自分たちの利益を守るためにさまざまな観点から介入。

デンマークの介入が始まったのは、ルター派の国王クリスチャン4世が、プロテスタント国としてのデンマークの主権が脅かされるのを恐れ、反神聖ローマ帝国派の軍を支援したことがきっかけであった。 介入の期間は1625年から1629年まで続いた。クリスチャン4世の北ドイツに対する諸政策は、それまで大いに成功してきた(ハンブルクはデンマークの王権を1621年に受け入れることを強いられたし、1623年にはクリスチャンの息子をブレーメン=フェルデンの司教に就けることに成功していた)。一人の政治家としてもクリスチャンは卓抜な才能を示してきた。エーレスンド海峡の通行料とスウェーデンからの多額の賠償金を得て、デンマークは、ヨーロッパの他の国に比べると不相応とも言うべき程のである安定と富を握っていた。他に、デンマークに匹敵する強い財政力を手にしていたのは、バイエルンだけであった。フランスの宰相リシュリューがデンマークのドイツへの侵略に対して金銭的支援を行う意向を示していた点も財政を補強する好材料であった。クリスチャン4世は 20,000の国王軍を率いてドイツに侵略した。しかしルッターの戦いなどで敗退し、ヴァレンシュタインの神聖ローマ帝国軍にユラン半島まで侵攻を許し、ブレーメンやフェルデンの司教位を失い、デンマークの三十年戦争は終了した。

スウェーデンの介入は1630年に始まり、1635年まで続いた。神聖ローマ皇帝フェルディナント2世宮廷の中にはヴァレンシュタインがドイツ諸侯を統制し、帝国に影響力を行使しると信じるものがいた。ヴァレンシュタインは、グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデン軍が、多くの戦争で帝国を攻撃した後、1630年にフェルディナント2世によって解任された。

グスタフ2世アドルフは、先のクリスチャン4世のように、ルター派の傾向をもっていた。これは、カソリック連合の彼らの国に対してforestall するためとバルト海沿岸のドイツ諸国の経済的影響力を獲得するためにである。 クリスチャン4世同様、グスタフ・アドルフもルイ13世の宰相リシュリューとオランダによってsubsidized されており、1630年から1634年まで、彼らはカトリック勢力を退け、占領されたプロテスタントの土地を奪い返した。その後、グスタフ・アドルフは戦死したものの、スウェーデン宰相オクセンシェルナの優れた差配によって、三十年戦争の勝利国となった(ヴェストファーレン条約)。1645年にはトルステンソン戦争でデンマークを破り、バルト海と北方の覇権を確立した。

大北方戦争
大北方戦争は、ロシア帝国、デンマーク=ノルウェー二重王国、ザクセン=ポーランド(1715年以降にプロイセン王国とハノーファーが加わる)の同盟と、スウェーデンとの間で、1700年から1721年にわたって行われた戦争である。戦争は1700年の同盟側のスウェーデンに対する連係攻撃によって始まり、当初は、ポーランドを傀儡国家とするなどスウェーデンの優位であったが、1709年のポルタヴァの戦い、1712年のハンゲの海戦などでロシアが優位を確立した。そして1718年のカール12世の死、1720年のストックホルム条約、1721年のニスタット条約との締結によって終了した。この戦争の結果、ロシアはスウェーデンに代わってバルト海の覇権を握り、ヨーロッパの列強の一員となった。

なお、この戦争で、デンマークは現状維持を保ったが、スウェーデン、ポーランドが没落し、ロシアがバルト海のみならず、北欧、東欧を凌駕した覇権国家となった。またスウェーデンは、バルト海、バルト地方の覇権を喪失したが、スウェーデン=フィンランドは維持された。プロイセン王国も勃興の時代を迎え、ヨーロッパの縮図を塗り替えていった。

植民地化政策 [編集]

スウェーデンとデンマーク両国は、17世紀から20世紀にかけてスカンディナヴィア半島以外に多くの植民地を持っていた。 デンマークは北大西洋にグリーンランドとアイスランドを持っていた。デンマークは西インド諸島のセント・トーマス島を1671年、セント・ジョン島を1718年手に入れ、さらにセント・クロイ島をフランスから1733年に購入した。デンマーク(デンマーク東インド会社 )はさらにインドのトランケバールも植民地とした。スウェーデンもまたスウェーデン東インド会社を設立した。 During its heyday, デンマーク、スウェーデンそれぞれの東インド会社は、イギリス東インド会社より多くの茶を輸入した。そしてそれらの90%がイギリスへ密輸され大きな冨を得た。両東インド会社はナポレオン戦争の際に解散した。スウェーデンは北アメリカ大陸にも短い間の植民地を得て、(西インド会社)によって、1784年-1878年の間、サン・バルテルミ島をそしてカリブ海のグアドループ島を植民地としていた。

ナポレオン戦争
スカンディナヴィアはナポレオン戦争中に分割された。スウェーデンはナポレオン・ボナパルトに対抗するために1805年第三次対仏大同盟に参加したが、この同盟からはロシアが離れてロシアはスウェーデンからフィンランドを奪った(フィンランド戦争)。この時に子がなかったカール13世は、フランスのベルナドット元帥(後のカール14世)を次の王位継承者とすることを同時に決めた。ベルナドットはナポレオンの初期からの将軍の1人だったが1813年から1814年にかけてフランスと戦うことを決断した。このとき、スウェーデンのメルネル男爵はこの若い将軍を王太子とすることを提案した。

デンマークの港がイギリス海軍に封鎖されるとデンマーク=ノルウェーは紛争に巻き込まれた。イギリス海軍はコペンハーゲンの海戦でデンマーク艦隊に攻撃を仕掛け、さらに1807年には市街地に艦砲射撃を加えた。1801年、デンマーク艦隊は大きな損害を受けたが再建され1807年には再度捕獲または撃沈された。生き残ったデンマーク艦隊とイギリス海軍の間には続く数年間にBattle of Zealand Point、Battle of Lyngør、Battle of Anholtが起き、イギリス海軍の封鎖突破を試みてGunboat Warが起きた。 戦後、デンマークはヘルゴランド島をイギリスに、ノルウェーをスウェーデンに割譲した。

第二次ロシア・スウェーデン戦争 [編集]

1808年2月から1809年9月までスウェーデンとロシア帝国がフィンランドを舞台に戦争した。 この戦争の結果、スウェーデン領の東部地域を形成していたフィンランドはロシア帝国内の同君連合として自治権を持つフィンランド大公国になった。フィンランドは1917年までロシア帝国の一部であり、その後独立した。またスウェーデン議会が新憲法と新王室の議案を採択しベルナドッテ朝が誕生した。

スウェーデン=ノルウェー連合王国 [編集]

1814年1月14日、キール条約でノルウェーはデンマークからスウェーデンに割譲された。ノルウェー人は、自ら運命を決定しようと、エイッツヴォルにおいて憲法制定議会を開催し、5月17日にノルウェー憲法を制定した。この議会において、ノルウェー副王であったデンマークの王子クリスチャン・フレデリクが国王に選出された。

スウェーデン王及び列強はノルウェー独立の正当性を否定し、7月27日に軍事行動を開始して、ヴァーラー諸島とフレデリクスタードを攻撃した。スウェーデン軍は兵力・装備・訓練のいずれにおいても勝り、またナポレオン麾下の将軍で、新たにスウェーデン王太子に選出されていたジャン・バティスト・ベルナドット(カール14世ヨハン)に率いられていた。短い戦闘の後、スウェーデン軍が決定的な勝利を収め、8月14日に休戦交渉が決着した。

和平交渉においてクリスチャン・フレデリクは、スウェーデンがノルウェーの民主的憲法と緩やかな同君連合を受け入れるならば、自らはノルウェー王位の主張を放棄し、デンマークへ帰国することに同意した。

ノルウェーにおいては連合への不満が高まり、1905年6月7日に 議会は全会一致で連合の解消を宣言した。この一方的な行動はスウェーデンからの戦争の脅威に直面した。8月13日の住民投票は議会の決定を368,208対184の多数で承認した。カールスタードで交渉が持たれ、9月23日にスウェーデンとの合意が成立、両国は総動員体制を解除した。両国の議会は10月16日に『連合法』の解消を議決し、スウェーデン国王オスカル2世はノルウェーに対する王位の主張を放棄し、ノルウェー王国の独立を承認した。ノルウェー議会はデンマークのカール王子に空位の座を提供する議決をすると、国民投票による王制の承認を待ってカール王子はこれを受諾した。1905年11月25日にカール王子はノルウェーに到着し、ホーコン7世として即位した。

近代
19世紀半ば、とくにスウェーデン=ノルウェー軍が目覚しく活躍したFirst war of Schleswig (1848年-1850年)と、国王のデンマークに対する軍事的支持表明をスウェーデン議会が糾弾した1864年のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争のあいだの期間、汎スカンディナヴィア主義者の政治運動が活発になるとスカンディナヴィアという語が近代の文脈で使われるようになった。

工業化 [編集]

スカンディナヴィアでは工業化は19世紀の半ばに始まった。デンマークにおいて始まった産業革命 は1890年代までコペンハーゲン に限られ、その他の都市ではその後急速に成長が始まった。デンマークは20世紀に入るまで基本的に農業中心であったが、農法は近代化され、乳製品や肉の加工が、未加工の農作物よりも重要になった。 スウェーデンでは、北部の鉱山と南部を結ぶ鉄道の建設が何よりも重要であり、工業は第1次世界大戦中にも好況を迎えた。

移民 [編集]
19世紀後半、多くのスカンディナヴィア人がカナダ、アメリカ合衆国、オーストラリア、アフリカ、ニュージーランドへ移住した。スカンディナヴィアから他の国への移民のピークは1860年代から1880年代にかけてとされるが、1930年代まで相当数の人口が流出し続けた。移民の大多数は地方出身者で、より良い農場経営を行える環境と経済的な成功を求めて祖国を後にした。フィンランドやアイスランドからの移民も含めると、1850年以降の80年間で3分の1近い人口が流出した。
こうした大移動の一因に死亡率の低下による人口増とそれに伴う国内の失業率の上昇があり、[1] スカンディナヴィアからの移民の総数に占める割合が最も多かったのはノルウェー、一番少ないのはデンマークだった。 1820年から1920年にかけて200万人以上のスカンディナビア人がアメリカ合衆国へ渡った。スウェーデンから100万人、デンマークから30万人、ノルウェーから73万人が渡航し、[2] ノルウェーの人口は1800年の80%近くまで減少した。 北アメリカの主な移住先はアメリカ合衆国のミネソタ州、 アイオワ州、ノースダコタ州、サウスダコタ州、 ウィスコンシン州、 ミシガン州、カナダのサスカチュワン州の プレーリー地帯 とオンタリオ州であった。

スカンディナヴィア通貨同盟 [編集]

「スカンディナヴィア通貨同盟」は 5月5日 1873にデンマークとスウェーデンによって結成された通貨同盟であり、 通貨 を 金本位制に対して固定し、互いに額面を等価とした。スウェーデンとの連合下にあった ノルウェーは 2年後の1875年に通貨同盟に参加し、金に対してデンマークとスウェーデン と同じ水準で通貨を固定した(.403 grams [3]). この通貨同盟は19世紀の政治的汎スカンディナヴィア主義運動の数少ない実体的な結果の一つであった。 通貨同盟は固定された為替相場とin monetary terms安定性をもたらしたが、加盟国はそれぞれ個別の通貨の発行は続けた。予見されていたことであるかどうかは別として、その安全性が認識されると、形式上異なったそれぞれの通貨が、実際には法定通貨と同様にこの地域全体で通用するという状況につながった。 1914年第一次世界大戦の勃発は通貨同盟を終結させた。スウェーデンは金本位制を 1914年8月2日に放棄し、固定相場は廃止されて、通貨の自由な流通は終わった。

第一次世界大戦 [編集]

スカンディナヴィア3国はともに第一次世界大戦を通じて中立を保った。 この戦争は第1にイギリスのドイツへの海上封鎖の結果として、この地域の経済に重大な打撃を与えたが、イギリスとの通商協定によって封鎖を避けて活動することが可能であった。 デンマークはその軍事力のかなりの部分に動員をかけたが、ドイツはエーレスンド海峡への機雷敷設などで、デンマークの主権を侵害し続けた。南ユトランド出身のドイツ系住民にはドイツ軍に従軍する者も少なくなかった。

福祉国家の建設 [編集]

スウェーデンとデンマークは社会民主主義政権、ノルウェーはノルウェー労働党の主導により、20世紀の初めから半ばにかけて社会福祉国家を築いた。

第二次世界大戦 [編集]

第二次世界大戦の開始が近くなると、連合国と枢軸国は、スカンディナヴィアに敵の戦力が現れることに脅威を感じていた。イギリスは、ドイツと同時にソビエトも脅威に感じており、冬戦争でのフィンランドへの軍事支援のために、ノルウェー、スウェーデンの侵攻も計画していた。しかし、支援前に冬戦争が終結すると、その計画は中止となった。一方、ドイツは、イギリスによる侵攻を恐れていた。ドイツへの直接侵攻のための足がかりに利用されるだけでなく、スウェーデンから輸入していた戦略物資である鉄鉱石を失うことに対する脅威である。そのため、北欧侵攻作戦の目的は、冬季に鉄鉱石の輸出に使用する、ノルウェーの不凍港ナルヴィクの確保が第一目標であり、デンマークはそのための基地と言う位置づけで第二目標だった。計画の1ヵ月後ドイツはデンマークとノルウェーを同じ1940年4月9日に侵略した。

それぞれの国は全く対照的に反応した。デンマークはおよそ2時間後に降伏した。死者はわずか16名だった。彼らは、市民への被害を避け、ドイツから寛大な扱いを受けることを望んでいた。しかしノルウェーは降伏を拒み、完全動員により勇敢に戦った。イギリスやフランスは援軍を送ったが、同時期に始まったフランス戦により兵力を取られ、最終的に撤退することになった。1940年6月10日に、ノルウェー正規軍はドイツに降伏した。

デンマークの戦略は、長期にわたって有効であることを証明した。進行したドイツは、デンマークに高い自治権を認めたのは、その一つの理由でもあった。他の理由としては、デンマークに対して本当の目的と言うのが無かったからである。侵攻後、ドイツは、デンマークを放棄しようとはせず、デンマークを帝国の一部としてみなした。デンマーク人はナチスのイデオロギーにより北欧諸国人とみなされていた。北欧諸国人はドイツを助ける位置に存在しているとしていた。これら全ての理由で、デンマークは議会や王政や通常の家庭の生活を維持し続けることができた。しかし、ドイツへの反抗心が徐々に大きくなり、ドイツへの小さなサボタージュがありふれたものになってきた。最終的には、ドイツはデンマーク議会の政府を排除し、軍政をひくことになった。

ノルウェーは占領期間中、過酷な扱いを受けた。対抗する政党は排除され、National Gathering(ノルウェーのナチズム政党)から全ての政府の役人が任命された。ヴィドクン・クヴィスリングが首相として任命されたが、ベルリン政府のあやつり人形であった。労働組合はナチスの支配を受け入れたものにのみ存続を許された。これらの抑圧は協力が小さい場合を考えていた。ノルウェー人は家族への迫害を恐れ、生きていくための食料の配給を手に入れるため、一部は自分たちの計画を支えるため、約10%がナチス党を支持していた。それにもかかわらず、1人のノルウェー人に8人のドイツ兵がいるという敵性関係となっていた。

デンマークとノルウェーはドイツの 大量虐殺の政策には協力しなかった。デンマーク人は、デンマークのユダヤ人を保護するために積極的な努力を行った。96%以上のユダヤ人がスウェーデンに安全に送られた。残りは、キリスト教徒のデンマーク人の家族や組織にかくまわれていた。一方、ノルウェーの警察はノルウェーのユダヤ人の逮捕を支援した。しかし、勇敢なノルウェー人は自分たちの家族全員がユダヤ人を助けたということで銃殺される危険を冒して、半分以上のユダヤ人を絶滅収容所から救い出した。

3つのスカンディナヴィア諸国の中、スウェーデンは侵略されずに戦争中中立だった。ドイツとの平和が成功し、戦略物資である鉄鉱石の輸出を行っていた。スウェーデン政府はナチス・ドイツの反感を買うことを恐れ、記事を検閲するため新聞の編集者を説得し、1943年までナチス・ドイツにノルウェーからスウェーデンを通しての補給の輸送を許していた。しかし、彼らはしばしば連合国にも援助を行っていた。彼らは、デンマークの保護施設から逃げて来たユダヤ人の入国を許可した。冬戦争では、ナチス・ドイツを怒らせない程度の義勇兵を送ったが、積極的なフィンランド支援は行われなかった。

冷戦 [編集]

第二次世界大戦後、すべてのスカンディナヴィア諸国は、ある種の相互防衛の政策が必要であると合意した。彼らは、スカンディナビアの防衛連合について協議を始めた。3つのスカンディナヴィア諸国は、同盟を組んだとしても、個々の国が主権を保持するが、外交政策や防衛問題では一つのブロックとして機能するものだった。提唱された連合は、1948年-1949年の冬に、統合スカンディナヴィアの委員会で議論された。しかし、アメリカ合衆国とソビエト連邦間の冷戦の緊張と、北大西洋条約となった西側同盟の準備はその努力を無駄にした。スカンディナヴィアの要求に対処する前に、西側同盟がスカンディナヴィア諸国に武器の供給はできないと知った時、この問題は最終的に議論で諦めていたノルウェーに対する転換点であることを証明した。デンマークは、まだスウェーデンと同盟を組みたいと考えていたが、スウェーデンはこれに関していくつかの利点があり、提案を却下した。ノルウェーとデンマーク は、その後、北大西洋条約の条約加盟国となり、北大西洋条約機構の一員となった。スウェーデンは熱い議論の末中立を保つことにした。一部の人は、ソビエトが近くのNATO加盟国の存在により脅されていると感じるのではないかと考えるため、フィンランドが鉄のカーテンの外側であることを許すためのスウェーデンの態度を信じていた。

欧州連合 [編集]

北欧諸国は1952年に北欧理事会(Nordic Council)を設立し、その2年後、ノルディック・パスポート・ユニオン(Nordic passport union)を設立した。

1972年の国民投票で、デンマークは北欧で欧州共同体(EEC)の最初のメンバーとなった。EECは1973年には欧州連合(EU)になった。スウェーデンはEUに1995年に加盟した。; ソ連崩壊後、スウェーデンは他国を挑発することなくEUに加盟が可能となったと考えていた。ノルウェーは、シェンゲン協定の条約加盟国で、欧州経済領域(EEA)の一員であるにもかかわらず、1972年と1994年の国民投票の後もEUに加盟しなかった。どのスカンディナヴィア諸国もユーロに加盟していない。参加はデンマークとスウェーデンの両方の国の国民投票で否決された。スカンディナヴィアの国々は、国家間の提携と多面外交に熱意が高いにもかかわらず、ユーロに対する懐疑心が高い。デンマークは1992年のマーストリヒト条約を否決した。デンマークは、共同体の中を混乱させ、統一通貨の提案から「撤退する」ことも含め、再交渉が必要となった。

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